かみさまは、

にんげんがつくったものだから、

ねがいをかなえることなんて

できやしないのだ。

もしほんとうにできるなら、

にんげんがとっくにかなえてる。

にんげんにできないことは、

かみさまにはできないのだ。

あかんぼうにもどってあいされることも、

あいするあのひとをいきかえらせることも。


夢の中で、

わたしは膝を抱えて座っております。

そよ風が、

わたしを少しずつ削り落としてゆきます。

何百年か、何億年かかけて、

わたしが心臓だけになったとき、

本当の愛を知ることができましょう。

そうしたら、拾ってくれた誰かを

わたしは永遠に愛することが

できるでしょう。


死は人の心を引きつける。恐れ、甘美、畏怖……それゆえに、死が軽々しく扱われているように思う。フィクションでは、死が感動のコンテンツとして扱われる。死は衝撃的なものとして客寄せに使われる。本来、生き方を見つめ、人生の指針であるはずだった死は、今や娯楽として消費されていく。誰もが必ず経験するものでありながら「フィクション」となってしまったのである。

ある読者が言った。

「あなたの作品に登場する桜子は、末期ガンにもかかわらず、なぜ死の場面を描かなかったのですか。うまくいけばベストセラーになったのに。映画化やドラマ化だって実現したはずだ」

私が彼女の死を描かなかったのは、彼女の死によって他の誰かの何かが変わるとは思えなかったからだ。登場人物たちは皆、彼女の死をとうの昔に覚悟している。彼女が死ぬことは確実だ。だから、わざわざそれを描くことはない。

死そのものは、とても個人的なものであると私は考える。人に見せるようなものではない。ましてや、感動や恐怖を煽るようなものであっていいはずがない。それはもはや殺人であり犯罪だ。だから、私は人の死を直接描くことはしない。登場人物たちが、各々で静かに死を迎えられるように、私は彼らを残して物語の幕を下ろすのだ。


小説を書いていると、
人生は1分1秒が分岐点なんだなと感じる。


頭の中には黴臭い霧があります。

吐息は油のように飛び散ります。

胸のあたりは錆びた鉄のようです。

おなかは奈落の底へ続いています。

手足はありません。

千切れて何処かへ行ってしまいました。


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