3.ある日、ヤジタは男子に囲まれて漫画やテレビ番組の話題に興じていたが、

ある日、ヤジタは男子に囲まれて漫画やテレビ番組の話題に興じていたが、そのうち「便所行く」と言って廊下に出た。
その瞬間、背後から大きな声が聞こえた。
「ヤジタくん!」
ヤジタは体をこわばらせた。振り返ると、スイが歩いて来るのが見えた。
みんなの視線が、スイとヤジタに集まる。
「今、ちょっと大丈夫?」
スイが笑いかけてくる。
ヤジタは、「無理」と言って便所へ走り去った。
声が裏返った。
スイに不審に思われただろうか。
「なぁ、ヤジタ。お前、今、スイに呼ばれてなかった? 廊下でうろうろしてお前のこと探してたっぽいけど」
後から便所に入って来た男子に訊かれ、ヤジタはとぼけた。
「いや、知らね。気のせいだろ」
「硬派なヤジタがねぇ。詳しく聞かせろよ」
質問攻めに遭うのは面倒臭い。かといって、また廊下に出れば、スイに見つかり呼び止められるかもしれない。
ヤジタは、逃げるように個室に入って鍵を閉めた。始業のチャイムが鳴っても出なかった。
好きな子の話をするだけなのに、こそこそと逃げ回っている自分が情けない。
マキノのように堂々とできたら、と思う。
チャイムが鳴っても何人かがまだ立ち話をしていたが、それも聞こえなくなった。
ヤジタは、個室のドアを少し開けて、外の様子を窺う。もう誰もいない。
トイレから一番近い教室の方から、英語の教科書を朗読する教師の声がかすかに聞こえる。
ヤジタは、このまま授業をさぼってしまおうと思って廊下に出ると、
「ヤジタくん、ちょっといい?」
スイが、トイレの前で待ち伏せていた。
ヤジタは驚いた。
「授業は?」
「ヤジタくんって、サボれないタイプ?」
「いや、大丈夫だけど。スイが授業サボるイメージないから」
「うん、ちょっとドキドキ。でも、こうでもしないとヤジタくんと話せないと思ったから。人が多いと逃げられちゃうし」
ヤジタの胸が痛む。
「ねぇ、屋上、行こうよ」
そう言って、スイが階段をのぼり始めた。
「お、おい」
「行かない?」
スイの笑顔が曇る。
ヤジタは辺りを見回して、誰もいないことを確かめると、スイのあとに続いて階段をのぼった。
屋上へ続くドアの前で、ふたりは立ち往生した。
「鍵、開いてないね」
「いつも閉め切ってるよな」
「えっ、ヤジタくん、知ってたの?」
「多分、みんな知ってる。話すならここでもいいだろ。誰も来ないだろうし」
「うん、そうだね」
そして、ふたりは声をひそめて話した。
「ヤジタくん、改めて……あの時、助けてくれてありがとう。あのまま階段から落ちてたと思うと、ぞっとする」
「ほんと、大事にならなくてよかったよ。あれから具合はどうなの」
「うん、大丈夫。あの時はちょっと、いろいろあって、よく眠れなかったし、ご飯もあんまり食べられなくて貧血になっちゃったのかも。今はもう大丈夫だよ」
やはりストレスだろうか。教室にいたくなくて、休み時間のたびに保健室へ行くような状態なのだ。
ヤジタは胸が痛んだ。人のいるところでは守れないから、せめて二人でいる時はスイの心を落ち着ける存在でいよう。
ヤジタは、心に誓った。
「ねぇ、ヤジタくんって、野球部だよね。将来の夢は野球選手?」
ヤジタは、少し考えた。好きは好きなのだが、将来の夢かと問われると違う。
「俺、空が好きなんだ。空の下にいられるなら、なんでもいいな、と思って。テニスとかサッカーだと、常にボールと地面を見てないといけないけど、野球なら、空が見える」
「だから野球部に入ったの?」
ヤジタは頷く。自分でも変な理由だと思う。誰にも話したことがなかったが、不思議とスイには躊躇いなく話せた。
「素敵」スイは呟いた。ヤジタは、胸がドキッと高鳴った。
「私は、海が好きなの。好きすぎて、熱帯魚の水槽が部屋に五つある」
「五つも?」ヤジタは驚いた。
「うん。部屋の電気を消して、一日中眺めていられるの」
「すごいね。なんで海が好きなの?」
「海は、いろんな命が生まれるから」
屋上への扉の窓から僅かに差し込む陽の光が、スイの輪郭をやわらかくする。その横顔が、きれいだった。
「今度の日曜、ヒマ?」
ヤジタは、思わず訊いていた。誰も知らないスイの意外な一面を知って、舞い上がっていた。
「え、うん、特になにもないよ」
「じゃ、どっか行かない? 日曜は俺、部活ないし、もうちょっとスイのこと知りたい。こんなに面白いヤツだと思わなかったから。昼飯ん時もほとんどマキノがしゃべってるし、俺ら学校じゃあんま話せないからさ」
下心を押さえつけながら、さりげない風を装う。
「わぁ、楽しみ」
スイは喜んでくれた。ヤジタは、心の中でガッツポーズをした。
とは言ったものの、具体的なデートプランはない。奥手なヤジタにとって、女の子と遊びに行くのは人生初のことだった。
迷った挙げ句、ヤジタは次の休み時間に、マキノに相談した。
「実は、今度の日曜、スイと出かけることになったんだけど、なんかいい場所ない?」
「えっ、それって、デート?」
「誰にも言うなよ、絶対。つい、成り行きで誘っちまったんだよ。さっき、ちょっと話したら面白いやつだったから」
マキノは、一瞬、目を見開いたが、何か合点が行ったような顔になった。
「どうりで、さっきの授業で二人ともいなかったわけだ。ヤジタって、スイのこと好きなんだね」
ヤジタは、自分の発言を悔いた。それで、俯いてもごもごしていると、マキノがささやいた。
「誰にも言わないから、あたしにだけこっそり教えてよ」
「絶対、誰にも言うなよ」
念を押す。マキノが頷く。
「一年のときに、一目惚れして」
「そんな前から?」
「悪ィかよ」
「いや、全然悪くないけど……」
マキノは眉根を寄せた。
「周りの男子がずっとスイの悪口言ってるの聞くの、つらくなかった?」
「あぁ、気分は悪かった」
「じゃぁさ、悪口言わせないように頑張ってよ。相変わらずヒソヒソ聞こえてくるし、あからさまに無視されてるの、もう見てられない。あたしも、やめるよう何度も言ってるけど、さすがにひとりじゃ限界ある。好きな子のためならできるでしょ」
それができれば、どんなにいいだろう。
「努力するよ」
と言いつつ、どうにもできないと思っている。スイは、この学年の男子にとって、手の届かない花なのだ。それに触れたことが知られたら、何が起こるかわからない。
ヤジタは、面倒事が嫌いだ。だから、安定している現状を変えるつもりはなかった。
「とりあえず、今は、出かけるのにどこかいい場所知らないかな」
ヤジタは話題を戻そうとするが、マキノは不満げな顔をしている。
「初めてなら、映画とか水族館がいいんじゃないの? お金がなければ、ウィンドウショッピングでもいいと思う」
「あぁ、水族館。なるほどな。海が好きだって言ってたから、ちょうどいいかも。サンキュー」
ヤジタは、不機嫌なマキノからさっさと離れて自分の席へ戻った。

日曜日。約束通り、ヤジタとスイはデートした。学校の連中に会わないよう、他県の水族館まで遠出した。
ヤジタから見て、この日のスイは別人のように美しかった。水槽から放たれる、淡く青い光は、小柄なスイの無邪気さを儚げに演出する。海の底の闇に、ふわり、浮かぶクラゲのように。
青く。
ふわり。
前へ泳ぐ。
触れれば痺れてしまいそうだ。それでも、追いかけて、触れてみたい。
手を伸ばして、腕をつかむ。
ぴりっ。
「ヤジタくん?」
ハッと、ヤジタは我に返る。
スイが顔を真っ赤にして、つかまれた左腕を見つめている。
「あ、いや、ゴメン。暗いから、そんな急いで歩くと危ないと思って」
ヤジタは、手を離した。
ぴりっ。
痺れた感覚が、まだ少し残っている。
その手を、パンツのポケットにねじ込む。
「えへへ、ありがと。つい、楽しくって」
スイに無邪気さが戻る。ヤジタは、夢から覚めたような心地になって、辺りを見回すと、そこはもう海の底の闇ではなく、いくつもの小窓のあいた壁と水槽が並ぶ水族館だった。
この水族館の目玉は、巨大な水槽でできたトンネルだ。水槽トンネルの中を、エスカレーターで移動する。スイはこれが楽しみで、前日はよく眠れなかったと言う。
エスカレーターに一歩、足を踏み出すと、スイは「うわぁ」と声を漏らした。
天の川のような小魚の群れ。
天女のごとく舞う巨大なエイ。
地の主であるかのような顔をしたウツボ。
スイはどれを見てもいちいち驚きの声をあげたし、ヤジタも一緒になって楽しんだ。
不思議と、人はいなかった。
日曜で、館内はそこそこ混んでいたはずだが、たまたま、ヤジタとスイの前後にエスカレーターに乗った人がいなかったのだ。
図らずも、貸し切り状態となった。
決して表に出さぬよう押さえていたヤジタの下心が、おもむろに頭をもたげる。
肩を組んでも構わないだろうか、いや、手をつなぐぐらいなら……というか、そもそも付き合ってもいない。では、告白か。
ヤジタの思考は、海の中にいるかのようにあちこち漂う。そのまま、エスカレーターが下りきって、水平になったところで、突然、スイが倒れた。
ヤジタは背筋がひやりとした。また貧血だろうか。心配してスイの顔を覗き込むと、スイはぼんやりと目を開けたまま、トンネルの天井を眺めている。
「海の中を漂ってるみたい」
スイがぽつりと言った。表情がなく、目の光は鈍く、口は半開きだった。
ヤジタは、金縛りにあったかのように身動きできなくなった。同じ海の底にいるのに、見ているものはまるで違う。そんな気がして、呆然と、仰向けに横たわるスイを眺めていた。
エスカレーターが水平から上りへ切り替わる前に、スイは立ち上がり、無邪気な笑顔をヤジタに向けた。
「海の中にいるみたいで気持ちよかったぁ。生まれ変わったらクラゲになりたいな」
ヤジタは、曖昧に微笑した。