妄想バコ

他愛ない話。

目が覚めると、ベッドの脇に彼女が立っていた。彼女の家のベッドを占領して、いつの間にか寝てしまったらしい。彼女は深刻な顔でこちらを見ていて、あぁ、こりゃ怒られるなと思った。

「話があるの」

はい。

あたしね、最近、悩んでいたの。どこに行っても、あたしに似ている人がいるの」

似ている人?

「ええ。よく目が合うし、目が合ったらニヤニヤ笑いかけてくることもあって、気持ちが悪かったの」

なんだか変わった説教だな。まぁ、でも、悩みに気づけなかったのは悪かったよ。どうしてほしい? 警察行こうか?

「いいえ、もう大丈夫。解決したから。ある日ね、廊下の奥の鏡を見たら、居たのよ、あたしに似たそいつが。あたしね、分かっちゃったの。それはね、あたしのふりをしたストーカーだったのよ。今までハッキリしなくてグレーゾーンだったものが、真っ黒になったのよ。真ッッッッッッ黒に! 正体を突き止めたのよ!」

いや、それは鏡に映った自分だろ?

「鏡だと思ってたけれど、実は別の空間に続く入り口だったのよ。だって、そのストーカーの背後には家の廊下があったもの。あれはあのストーカーの家なのよ」

えーっと、じゃぁ、きみのこの家とそのストーカーの家は繋がってるってこと?

「そう、繋がってるの。こちらから向こうへ行くことはできないけれど、向こうからこちらへ来ることはできるみたい。それが、さっき言った『どこに行っても、あたしに似ている人がいる』理由よ」

なんだか、ぶっ飛んだ話だなぁ……。

「あたしね、あんまり気味が悪くなって、昨日、家でブラヴォドをストーカーに向かって投げつけたの! 瓶は多分割れたわ。ストーカーの頭も割れちゃったかもね。ウフフフ」

随分、乱暴なことをするんだな。

「だって、部屋が荒らされていたのよ! 許せないじゃない!」

えっ、部屋が荒らされたなんて初めて聞いたよ。

「だって、さっき帰ったら、廊下の奥の鏡が割れているのよ。びっくりしたわ。あのストーカーの仕業よ。ひどいわ、あの鏡、気に入ってたのに。うっ、うっ……」

……。

これ以上、何も言えなかった。気味が悪くて、この場から離れたかったから、泣き続ける彼女に簡単に別れを告げ、逃げるようにして家を出た。正直言って、彼女とはもうやっていけないと思った。しばらく夢中で歩いていると、携帯電話に友人から着信が入った。

「よう、今ヒマ? 飯食わねぇ?」

あぁ、いいよ。どこで食う?

「地元のいつものところで良いよ」

その「いつもの店で友人とおちあい、飲みながら近況報告をしているうちに、気分が良くなってきた。けれど、彼女の「悩みについてのもやもやした気分は、なかなか晴れない。自分の姿をストーカーと言ううえに、鏡が別の空間への入り口だって? まったくわけがわからない。そういえば、昔から不思議なことを言っていたような気もするし、そうでもなさそうだし、どうだったかな。酒の勢いで、友人に先ほどの彼女の話を一部始終話してみた。中学からの腐れ縁だ。何でも話せる相手である。

「うーん、言っちゃ悪いけど、気持ち悪ィな」

やっぱりそう思うか? 俺、もう彼女とは正直やっていけねぇよ。

「つーか、おまえらどのぐらい付き合ってんの?」

いや、もうわかんね〜な。年単位だと思うけど。

「マジで? 俺さ、おまえに彼女がいるって、今初めて知ったんだけど」

へ? 言ってなかったっけ?

「言ってないも何も、おまえつい最近まで会うたびに『彼女ほしい』って言ってたじゃん」

……そうだっけ?

「その彼女って、どんな子? 可愛い?」

可愛い? そりゃ、可愛いから付き合ってるんだろう。だけど、けど、どんな子だったか、まったく思い出せなかった。

髪型は? 背の高さは? 声は?

何もかも思い出せない。なぜ? そうだ、携帯電話に登録があるはずだ。検索してみる。が、彼女のものらしき名前も番号もない。じゃぁ、さっき聞いた話は何だったんだ? 心臓が痛い、喉の奥が詰まってきた。酒も飯もうまく流し込めない。その後何を話したかは記憶になく、適当な時間で友人と別れた。彼女の家に行くつもりなど毛頭ない。そもそも、彼女の家を、あれ、なんで知らないんだ? さっきまで居たのに! 思い出せない。きっと、飲み過ぎたんだ。家に帰ったら、すぐに寝て酔いを醒まそう。明日になればきっと冷静になれる。シャワーは明日でいいや。家に着き、鍵を開けて鍵が、開いている。あれ、閉め忘れた? 泥棒に入られていないよな? おそるおそるドアを開け、廊下の電気をつけた。

廊下の奥で、ひからびた真っ黒な液体の上に、お気に入りだった鏡の破片と、ブラヴォドの瓶が転がっていた。


こうして、ちょっとした文章を書いていると、すぐに飽きてしまう。今、この文字を書いている瞬間も、この話を書くことに飽きている。とにかく飽きっぽい。読書をしていてもすぐに飽きるし、散歩をしていても飽きる。食事も飽きるし、会話も飽きる。恋人にも飽きるし、仕事にも飽きる。考えることにも飽きるし、呼吸をすることにも飽きている。


君が死ぬのは構わない。だけど、僕を忘れるのだけは許さない。君が死ねば、君は僕を忘れるだろう。僕が死ねば、君は僕を忘れるだろう。それは絶対に許さない。君が死ぬのは構わない。だけど、僕を忘れるのだけは許さない。


何故かは分からないが、真っ暗闇の中で、首から下が地中に埋まっていて、身動きがとれない。最初は、足首までだった。だから、このぐらい平気だと軽く見ていたのが間違いだった。前に進まなければともがいていたら、いつのまにか、下半身がまるまる埋まっていた。これは本格的に危ないかもしれないと考え、さらにもがいた結果がこれだ。もがこうにももがけない。体は疲弊し、首も回らない。もう、何年この状態でいるのか。この暗闇の主になった気分だ。

そう、私は、この暗闇の主だ。

そう思ったら、気分が楽になった。この暗闇を支配しているのは、私だ。慣れてしまえば、心地良いではないか。

息苦しくなることもある。時々、誰かがやって来て救い出してくれないかと期待することもある。けれど、そんなことはすぐにどうでもよくなる。

もう、私はこれで完成している。今更変える気にはならない。

あるとき、この暗闇の中で、光の筋が見えて、すぐに消えた。またあるとき、再び光の筋が見えて、すぐに消えた。二度目の光は、少しだけこちらに近づいていたようだ。何度か、この光は現れては消え、現れては消えを繰り返していた。光は、近くまで来たかと思えば、遠くへ行くこともあった。次はどこを照らすのだろう。

退屈な暗闇の中で、光のダンスは案外、私の心を刺激した。こういうのも悪くない。私は娯楽として、それを楽しむようになっていた。

その日も、いつものように光の筋が現れ、地面を照らした。

そこには、人の頭があった。

私は、後頭部が痺れた! この闇にいるのは、私だけではなかったのか! 頭上から降り注ぐ光に、その頭はしばらく呆然としていたようだが、突如、断末魔の叫び声をあげて消えた。同時に、光の筋も消え去った。

いまだかつて見たことのない光景に、私は唖然としていた。

また、近くで光の筋が見えた。私は心臓が縮み上がった。そこには人の頭などなく、ただ地面があるだけだった。

それから、光の筋は時々ぽっと現れ、地面を照らしては消えていた。

そして、再び「それ」は起こった。

少し遠くだったが、地面にはっきりと黒いまるい塊が見えた。そして、断末魔の叫びが聞こえ、消えた。

「逃げなければ」と、思った。私も、いつあの光に照らされるかわからない。

私はもがいた。久しく動かしていなかった体を死ぬ気で動かしたが、体がすっかり石のようになっていて動かない。その間も、光の筋は現れては消えていた。光は現れるたびに、私に近づいているような気がした。

そして、とうとう、光は私を照らした!

もうおしまいだと絶望した、その瞬間、私の頭は勢いよく地面に吸い込まれ、そのまま、再び暗闇の中へ、ひたすら下へ下へ落ちていった——。


パスワードが増えて、メモをとらないと覚えきれなくなった。

同じパスワードを使うのは危険と言われているので、仕方なく毎回違う文字列を入力している。面倒と思う反面、安心できるのでまあよしとしているが、最近、日常でもパスワードを設定しないと落ち着かなくなった。

例えばメモをとる際、ペンのキャップをはずす時に、頭の中でそのパスワードを入力しないとはずせない。

また、電車の扉が開く時も、頭の中でパスワードを入力しないと落ち着かない。もし入力完了前に扉が開いたら、恐ろしくてその電車には乗れず、次を待つ。

一番困ったのは、トイレで用を足す時、パスワードをうっかり忘れて数時間便座で苦しんだことだ。

それ以来、パスワードをメモしたノートを常に持ち歩くようになった。


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