今、生きているこの世界は、実は死後の世界ではないかと考えることがある。
そう考えると、先に記した死の想像は、想像ではなく実際に死んだときの光景なのではないかと思えてくる。
齊藤木 一紗の執筆・活動状況。
今、生きているこの世界は、実は死後の世界ではないかと考えることがある。
そう考えると、先に記した死の想像は、想像ではなく実際に死んだときの光景なのではないかと思えてくる。
死ぬ時は、病死や事故死ではなく、十分生きた上で安らかに死にたい。誰もが願うことだろう。
想像するだけなら、病死も事故死も自殺もできる。
病死の時は、愛する者に向けてビデオレターを撮影しているところを想像する。死を覚悟するから苦しみは無い。
事故死の時は、ダンプカーにはねられたり、雷に撃たれて黒コゲになったりする自分を眺める形で想像する。即死だから苦しみは無い。
自殺の時は、首を吊ったり、一酸化炭素中毒で死ぬところを想像する。世の中を恨みながら死んでいく。自殺の動機として妥当だろう。その死体を、愛する者が発見し悲しみにくれる。その悲しみようを見て、罪悪感が生まれ、死を想像するのをやめる。
本当に死ぬまでに、あと何回死ぬことを繰り返すかはわからないが、もはやこの行為は生活の一部となりつつある。
パスワードが増えて、メモをとらないと覚えきれなくなった。
同じパスワードを使うのは危険と言われているので、仕方なく毎回違う文字列を入力している。面倒と思う反面、安心できるのでまあよしとしているが、最近、日常でもパスワードを設定しないと落ち着かなくなった。
例えばメモをとる際、ペンのキャップをはずす時に、頭の中でそのパスワードを入力しないとはずせない。
また、電車の扉が開く時も、頭の中でパスワードを入力しないと落ち着かない。もし入力完了前に扉が開いたら、恐ろしくてその電車には乗れず、次を待つ。
一番困ったのは、トイレで用を足す時、パスワードをうっかり忘れて数時間便座で苦しんだことだ。
それ以来、パスワードをメモしたノートを常に持ち歩くようになった。