夏空よ

空蝉に生きる抜け殻の

私の体を熱く焦がせよ


小学生の頃、好きな男の子がいました。話しかける勇気がなくて、いつも遠くから見ているだけでした。私には、親友と呼べるほど仲良しだった女の子が二人いましたが、どちらも彼のことが好きだったようです。

ある日、どちらかの子が、どちらかの子を階段から突き落としたのを見ました。落ちた方の子が、苦しそうにうめいているのを見て怖くなった私は、逃げました。落とした方の子がどんな表情をしていたかは、わかりません。落とされた方の子は、その後病院へ運ばれたと聞きました。

放課後、落とした方の子が私のところへ来て、こう言いました。

「見てたあんたも共犯だからね。誰にも言っちゃだめだよ。もし誰かに言ったら、あんたに命令されてやったって言うから」と。

そして、『私はあなたを裏切らないことを誓います。』と書かれた誓約書に拇印を押すことを強要されました。

中学生の頃、その子と同じクラスになり、私は彼女からいじめのターゲットにされていました。理由はわかりません。好きだった男の子にふられてしまったと聞きましたが、その腹いせだったのでしょう。

しかし、クラスのみんなも、先生たちも、誰もいじめに気づいていませんでした。

その子は、事あるごとに「誰にも言っちゃだめだよ。言ったらどうなるかわかってるよね」と笑って言っていました。

そして、『私はあなたを裏切らないことを誓います。』と書かれた誓約書に拇印を押すことを強要されました。

高校生になり、小学校の同窓会がありました。そこで、あのとき階段から突き落とされた子が亡くなったという話を聞きました。私は、罪悪感でいっぱいになりました。突き落としたあの子は、どう思っていたのでしょう。

帰宅後、同窓会の余韻にひたるため、卒業アルバムを探していると、たくさんの誓約書が出てきました。当時の恐怖が蘇ってきました。私は、誓約書を放り投げようとした時に、拇印を、見てしまったのです。

あの子の拇印と、私の拇印が並んで押されているはずなのに、どちらも同じ指紋でした。どの誓約書も、私の指紋だけが並んでいるのです。あの子のしるしが、あるはずなのに。どうして?

そして、私はすべてを理解しました。

遺書にすべてを書いて、最初で最後の裏切りをしようと思います。『あの子』と『私』への、裏切りを。


ある人が、赤は情熱の色だと言っていた。ある人というのは、まぁ、僕の愛していた女性なんだけど。昔の話さ。

彼女は赤が好きで、着る服はいつもどこかに赤をしのばせていた。帽子、靴、爪、ストール、上着、ワンピースなど、挙げたらきりがない。

「いつも赤を身につけていると、気分が高揚してくるの。なんでもできそうな気がしてくるの」

彼女は、時々そんなことを興奮気味に語った。僕は、そんな彼女が好きだった。彼女は、そんな僕の兄を、好きだった。

ある日、彼女は僕に言った。

「ねぇ、あなたの血を分けてくださらない?」

愛する彼女のためならと、僕は二つ返事で引き受けた。何のために必要なのかさえ聞く事もせず、毎日、腕に赤い注射針の跡が増えていくのを眺めていた。筒に、真っ赤な僕の血が溜まっていくのが快感で、確かに赤は情熱の色だな、と満足していた。

数日経った頃、兄が突然倒れた。起き上がることすら困難な状況で、彼女は献身的に兄の面倒を見ていた。その間、彼女は忘れていたのか、僕の血は抜かれないまま日々は過ぎた。腕の注射針の跡が黄色くなるまでほったらかされた僕は、兄への嫉妬で満ちていた。

やがて、兄の体調が良くなり、彼女の看病がなくとも動けるようになってきた頃、彼女が僕の血を求めた。

誰にも知られない、秘密の営みが再開される。彼女を独占できる、唯一の時間。僕は、束の間の優越感に浸る。情熱の、赤い液体に、浸る。

またしばらくして、兄が体調を崩し、倒れた。彼女があいつの看病をする。幸せそうに。行き場のなくなった僕の血は、ぐるぐると身体中を駆け回る。嫉妬の炎で煮えたぎる僕の血は、あいつへの妬みが凝縮されてドロドロになっているだろう。

ここで、僕は気づいてしまった。生まれてから特に病気もせず、健康体で生きてきたあいつが、この短期間で二度も倒れたのだ。

あいつが倒れ、彼女が看病する。その間、僕の血は抜かれなくなり、あいつの体調が良くなった途端に、彼女は僕の血を求める。そして、またあいつが倒れ、彼女が看病し、僕の血は抜かれなくなった。

僕の血と、あいつの体調が、何か関係しているのは明らかだった。そういえば、彼女はおまじないが好きだったような気もする。あいつの看病をする彼女は、実に幸せそうだ。僕には見せたことのない表情で。

あいつの体は僕の血でできている。直感で、そう感じた。

あいつの体調が良くなり、また彼女が僕の血を求める。僕の唯一の幸福。だけど、彼女がまたあいつのもとへ行くことは、僕にとっては不幸だ。あいつさえいなければ、と願う。あいつがいなくなったら、彼女は僕の血を求めるだろうか。わからない。

彼女が、僕の血を抜いた。今日の血は、いつにも増して、色が濃かったように思う。

その分、僕は深く深く、幸福に浸った。

翌日、あいつが倒れ、そのまま帰らぬ人となった。彼女は「こんなはずじゃなかったのに」と取り乱し、毎日泣いた。それ以降、彼女が僕の血を求めることはなかった。

ある日、彼女は身体中の毛と爪を赤く染め、全身赤い服で、泣きはらして真っ赤な目を開けて死んでいた。

赤は情熱の色だと彼女は言った。それを証明するかのように、あいつの墓の上で死んでいた。僕の、情熱的な赤い血は、身内を殺し、彼女を不幸にした。

赤は情熱の色だと彼女は言った。けれど、僕にとっては罪の色。


目が覚めると、ベッドの脇に彼女が立っていた。彼女の家のベッドを占領して、いつの間にか寝てしまったらしい。彼女は深刻な顔でこちらを見ていて、あぁ、こりゃ怒られるなと思った。

「話があるの」

はい。

あたしね、最近、悩んでいたの。どこに行っても、あたしに似ている人がいるの」

似ている人?

「ええ。よく目が合うし、目が合ったらニヤニヤ笑いかけてくることもあって、気持ちが悪かったの」

なんだか変わった説教だな。まぁ、でも、悩みに気づけなかったのは悪かったよ。どうしてほしい? 警察行こうか?

「いいえ、もう大丈夫。解決したから。ある日ね、廊下の奥の鏡を見たら、居たのよ、あたしに似たそいつが。あたしね、分かっちゃったの。それはね、あたしのふりをしたストーカーだったのよ。今までハッキリしなくてグレーゾーンだったものが、真っ黒になったのよ。真ッッッッッッ黒に! 正体を突き止めたのよ!」

いや、それは鏡に映った自分だろ?

「鏡だと思ってたけれど、実は別の空間に続く入り口だったのよ。だって、そのストーカーの背後には家の廊下があったもの。あれはあのストーカーの家なのよ」

えーっと、じゃぁ、きみのこの家とそのストーカーの家は繋がってるってこと?

「そう、繋がってるの。こちらから向こうへ行くことはできないけれど、向こうからこちらへ来ることはできるみたい。それが、さっき言った『どこに行っても、あたしに似ている人がいる』理由よ」

なんだか、ぶっ飛んだ話だなぁ……。

「あたしね、あんまり気味が悪くなって、昨日、家でブラヴォドをストーカーに向かって投げつけたの! 瓶は多分割れたわ。ストーカーの頭も割れちゃったかもね。ウフフフ」

随分、乱暴なことをするんだな。

「だって、部屋が荒らされていたのよ! 許せないじゃない!」

えっ、部屋が荒らされたなんて初めて聞いたよ。

「だって、さっき帰ったら、廊下の奥の鏡が割れているのよ。びっくりしたわ。あのストーカーの仕業よ。ひどいわ、あの鏡、気に入ってたのに。うっ、うっ……」

……。

これ以上、何も言えなかった。気味が悪くて、この場から離れたかったから、泣き続ける彼女に簡単に別れを告げ、逃げるようにして家を出た。正直言って、彼女とはもうやっていけないと思った。しばらく夢中で歩いていると、携帯電話に友人から着信が入った。

「よう、今ヒマ? 飯食わねぇ?」

あぁ、いいよ。どこで食う?

「地元のいつものところで良いよ」

その「いつもの店で友人とおちあい、飲みながら近況報告をしているうちに、気分が良くなってきた。けれど、彼女の「悩みについてのもやもやした気分は、なかなか晴れない。自分の姿をストーカーと言ううえに、鏡が別の空間への入り口だって? まったくわけがわからない。そういえば、昔から不思議なことを言っていたような気もするし、そうでもなさそうだし、どうだったかな。酒の勢いで、友人に先ほどの彼女の話を一部始終話してみた。中学からの腐れ縁だ。何でも話せる相手である。

「うーん、言っちゃ悪いけど、気持ち悪ィな」

やっぱりそう思うか? 俺、もう彼女とは正直やっていけねぇよ。

「つーか、おまえらどのぐらい付き合ってんの?」

いや、もうわかんね〜な。年単位だと思うけど。

「マジで? 俺さ、おまえに彼女がいるって、今初めて知ったんだけど」

へ? 言ってなかったっけ?

「言ってないも何も、おまえつい最近まで会うたびに『彼女ほしい』って言ってたじゃん」

……そうだっけ?

「その彼女って、どんな子? 可愛い?」

可愛い? そりゃ、可愛いから付き合ってるんだろう。だけど、けど、どんな子だったか、まったく思い出せなかった。

髪型は? 背の高さは? 声は?

何もかも思い出せない。なぜ? そうだ、携帯電話に登録があるはずだ。検索してみる。が、彼女のものらしき名前も番号もない。じゃぁ、さっき聞いた話は何だったんだ? 心臓が痛い、喉の奥が詰まってきた。酒も飯もうまく流し込めない。その後何を話したかは記憶になく、適当な時間で友人と別れた。彼女の家に行くつもりなど毛頭ない。そもそも、彼女の家を、あれ、なんで知らないんだ? さっきまで居たのに! 思い出せない。きっと、飲み過ぎたんだ。家に帰ったら、すぐに寝て酔いを醒まそう。明日になればきっと冷静になれる。シャワーは明日でいいや。家に着き、鍵を開けて鍵が、開いている。あれ、閉め忘れた? 泥棒に入られていないよな? おそるおそるドアを開け、廊下の電気をつけた。

廊下の奥で、ひからびた真っ黒な液体の上に、お気に入りだった鏡の破片と、ブラヴォドの瓶が転がっていた。


こうして、ちょっとした文章を書いていると、すぐに飽きてしまう。今、この文字を書いている瞬間も、この話を書くことに飽きている。とにかく飽きっぽい。読書をしていてもすぐに飽きるし、散歩をしていても飽きる。食事も飽きるし、会話も飽きる。恋人にも飽きるし、仕事にも飽きる。考えることにも飽きるし、呼吸をすることにも飽きている。


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